エマニュエル・トッド著「我々はどこから来て、今どこにいるのか?  」より

 

エマニュエル・トッド著「我々はどこから来て、今どこにいるのか? 」より

 

我々はどこから来て、今どこにいるのか? 上
◆上巻ー出版社の「作品紹介」から◆ ホモ・サピエンス誕生からトランプ登場までの全人類史を「家族」という視点から書き換える革命の書!
 人類は、「産業革命」よりも「新石器革命」に匹敵する「人類学的な革命」の時代を生きている。「通常の人類学」は、「途上国」を対象とするが、「トッド人類学」は「先進国」を対象としている。世界史の趨勢を決定づけているのは、米国、欧州、日本という「トリアード(三極)」であり、「現在の世界的危機」と「我々の生きづらさ」の正体は、政治学、経済学ではなく、人類学によってこそ捉えられるからだ。
 上巻では、これまで「最も新しい」と思われてきた「核家族」が、実は「最も原始的」であり、そうした「原始的な核家族」こそ「近代国家」との親和性をもつことが明らかにされ、そこから「アングロサクソンがなぜ世界の覇権を握ったか」という世界史最大の謎が解き明かされる。

 

西側対ロシア  ・・・「双系制(核家族)社会」と「父系制(共同体家族)社会」の対立

西側はなぜかくもロシアへの恐怖、敵意をむき出しにするのだろうか?
ヨーロッパ一の学者といわれる著者のこの「我々はどこから来て、今どこにいるのか? 上」を読むと、今見ているものが別の様相をあらわす。

〈私が見るところ、戦争の真の原因は、紛争当事者の意識(イデオロギー)よりも深い無意識の次元に存在しています。家族構造(無意識)から見れば、「双系制(核家族)社会」と「父系制(共同体家族)社会」が対立しているわけです。戦争の当事者自身が戦争の真の動機を理解していないからこそ、極めて危うい状況にあると言えます。〉(前掲書10~11頁)

エリツィンのあとロシアにはプーチンと新しい指導者グループが現われ、保護貿易システムを採用した。それは、ロシア人民を安価な労働力としてグローバル資本主義に売られることに対する拒否だった。著者はこれが西側のロシア恐怖症をおこしたという。つまり、凶暴なまでのウルトラ個人主義へと進化した世界において、ロシアは対抗モデルなのだ。
ロシアの共同体家族由来の価値観が、統合性の強いネイション概念を持続させる。それはまた国際競争上の有利さを与える。これがロシアが人口的現実からかけ離れた国際的地位を保っている原因だ。ロシアは軍事の専門化を行ってきた。そして多極的世界の中での諸国民の平等を追求する。それに絶対的支配を思考しているアメリカが苛立っているのだ。

我々はどこから来て、今どこにいるのか? 下
◆下巻ー出版社の「作品紹介」から◆下巻では、「民主制」が元来、「野蛮」で「排外的」なものであることが明らかにされ、「家族」から主要国の現状とありうる未来が分析される。
核家族」――高学歴エリートの「左派」が「体制順応派」となり、先進国の社会は分断されているが、英国のEU離脱、米国のトランプ政権誕生のように、「民主主義」の失地回復は、学歴社会から取り残された「右派」において生じている。
「共同体家族」――西側諸国は自らの利害から中国経済を過大評価し、ロシア経済を過小評価しているが、人口学的に見れば、少子高齢化が急速に進む中国の未来は暗く、ロシアの未来は明るい。
「直系家族」――「経済」を優先して「人口」を犠牲にしている日本とドイツ。東欧から人口を吸収し、国力増強を図かるドイツに対し、少子化を放置して移民も拒む日本は、国力の維持を諦め、世界から引きこもろうとしている。

アングロサクソン新自由主義に適応しすぎた日本

下巻を読むと現在の日本の停滞の原因と思われるものを理解することができる。

直系家族システムの日本は、アングロサクソン的な核家族システムとは異なる価値観を持つ。

<韓国の人口危機は日本よりも遅く、より最近に始まったのだが、あの国はすでに日本よりも高い割合で外国人を受け入れている。もっとも、中国東北部に朝鮮「民族」が存在していることで、移民導入が容易なのは事実だ。米国の文化主義的伝統を受け継ぐ人類学者ならば、韓国文化を外向的で、感情表現に適していると見倣し、配慮を優先する日本文化の正反対だと評するだろう。

これほどに知見を与えてくれるものはめったにないと思えたのは、日本、韓国、台湾、中国における家族的価値観の推移を比較するという、ある野心的な研究書の補遺を読んでいて、日本の世論調牡員たちと他の調査員たちの議論の要約に遭遇したときだった。

日本の調査員たちは、想定できる回答を偶数の選択肢に配分することで、回答者に、肯定と否定のいずれかの選択を強いることを求めていた(中央の選択肢が存在していると、回答者がそこに、意見を表出しないための避難場所を見つけることができる)。しかし、日本の研究者たちの主張は最終的に採用されなかった。

ここに到って、もしかすると、われわれは最終的に、日本は本当に特別な国だという考えを受け容れてよいのかもしれないという気がする。しかし、日本の差異、内向性、内婚制は、直系家族自体も含めて、せいぜい一五世紀から二〇世紀までの間に展開した比較的新しい歴史の所産なのである。〉(196~197頁)

体に合わない服を着続けてきたことが今日の日本の停滞の原因のようだ。アングロサクソン的価値観と決別し、独自の道を構築すべきときが来たのだろう。